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門 99回(朝日新聞朝刊)

「法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩くようにやって御覧なさい。頭のてっぺんから足の爪先までが悉く公案で充実したとき、がぜんとして新天地が現前するので御座います」

宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働きを敢えてするに適しない事を深く悲しんだ。

鶴見俊輔 『埴谷雄高』

同時代批評の凄みというべきか。両者の間の離接に臨場感がある。

埴谷雄高は、マクス・シュティルナーを通して、アナーキズムに接近していったのだという。

三輪太郎『憂国者たち』

群像九月号

三島由紀夫の『豊穣の海』は、いまだ読んでいない(絶対に読め、と言われたにもかかわらず)ので、ただの当てずっぽうだが、ひょっとすると、この物語はその第五部にあたるのかもしれない。それにしても、この大量難民の時代に、「本物の天皇」や「本物の日本」を探そうというのは、かなりドンキホーテ的な冒険ではなかろうか。

ボディ・クリティシズム

バーバラ・M・スタフォード(高山宏 訳)

神経系モデルの人間学が、解剖学モデルに対立するという見方がおもしろいと思った。リヒテンベルクの Pathognomie の表面性も、この繋がりで積極的な意味を帯びてくる。ラファータの観相学にある神学的な深みを用心深く避けているのだとすれば、リヒテンベルクのテクストに漂う諷刺的な感触も理解できる。
妙に気になっていた帯の「人体の気象学へ」は、やはり本書の核心なのだろう。

話題の(になった)本ということだけのことはある。しかし、文化論というのはみなそうだが、圧倒的なヴォリュームで人を納得させるようなところがあって、どうも辟易する。

高橋源一郎『「あの戦争」から「この戦争」へ』 と 荒川洋治『文学の空気のあるところ』

二人とも、社会の中に入っていって、文学を探している。

高橋氏の方が、より徹底的なのは、たぶん、文学の力をもうあまり信じていないからだろう。にもかかわらず、文学があるとすれば、こんな風なんだろうと思わせるようなところがある。いろいろなことを知っているし、いろいろな語り方ができる。政治的発言にも、どことなく小説家らしさがあって、いい。

にもかかわらず、話を聴きに行くなら、荒川氏ではないかと思う。

C. A. F. Kluge: Versuch einer Darstellung des animalischen Magnetismus, als Heilmittel, Wien 1815

1800年前後のヴィーンは、違法出版が公然と行われ、検閲も厳しかった。オン・デマンドで簡単にコピーを取れる時代になったが、専門家の手が入っていないだけに注意が必要である。
Kluge 正本は、Berlin 1811

Johann Christian Reil, Johann Christoph Hoffbauer (hg.): Beyträge zur Beförderung einer Kurmethode auf psychichem Wege
も、ウィーンの国立図書館所蔵は、1816年版で、一般に使用されている1808年版とは頁数が違っている。1808年版は、ベルリンの国立図書館が全巻所蔵。バイエルン国立図書館には欠巻がある。

ところが、どういうわけか、ベルリンの資料は、日本から簡単にダウンロードできない。

神々のたそがれ

アレクセイ・ゲルマン監督
たそがれ、というより、いない、という方が近いだろう。神のいない世界には、時間的にも空間的にも、およそパースペクティヴがない。切れ切れの接写で構成される場面、反復される物語。

文明化を知らない世界。牛や豚と変わらない人間たちが、なんだか殺したり殺されたりしているのだが、なにも進展しない。
ルネサンスのない世界。ボッシュブリューゲルのグロテスク絵画は、なんといってもルネサンスの産物なのだ、と今さらながらに思った。
廊下での立ち話で、ランズマンの最新作が上演されていることを知った。ネットで調べているうちに、この映画を見ておこうと思った。
ランズマンの方は、まだ京都でやっている、が、もう満腹。