バッハ『音楽の捧げ物』

Herbert Kegel u. Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig, 1972

フリューゲル=ピアノフォルテのボヤーっとしたリチュルカーレで始まり、ゆっくりとフーガ、カノン、ソナタが続く。後半は、パウル・デッサウヴェーベルンの編曲が並んでいるが、まるで最初からこの組み合わせで作曲されていたかのよう。
デッサウによる編曲は後の方がおもしろい。 Quaerendo invenietis のオルガンは、やはり20世紀の音がしている。

にもかかわらず、全体としてとても懐かしい感じがするのは、録音が古いためだけではないと思う。バッハ、あるいは、現代音楽はこうあるべき、というゆるぎなき信念がひしひしと伝わってくる。

70年頃のライプチヒでは、こういう演奏ができたのだ。良い意味でも、悪い意味でも。

ひかり埃のきみ

福田尚代

回文。前から読んでも、後ろから読んでも同じ文字列。たとえば、

眼鏡がない。田舎ね。カメ
めがねがない。いなかね。かめ。

なんていうレベルなら、ちょっと考えればできる。

しかし、これが何行にも渡り、次から次へと何ページもくり出されてくると、もう目が回りそう。
言葉遊びは、詩が一定の音の組み合わせからなることを思い出させてくれる。けれども、それだけでは、なにかが足りない。なにか強烈なイメージが欲しい。しかし、これだけ回文が連ねられると、連なっているだけで、独特のイメージが喚起される。

Altweibersommer

Altweibersommer ist in deutschsprachigen Ländern die Bezeichnung für eine meteorologische Singularität. Es handelt sich um eine Phase gleichmäßiger Witterung im Spätjahr, oft im September, die durch ein stabiles Hochdruckgebiet und ein warmes Ausklingen des Sommers gekennzeichnet ist. Das kurzzeitig trockenere Wetter erlaubt eine gute Fernsicht, intensiviert den Laubfall und die Laubverfärbung. Ähnliche Phänomene werden auch in anderen Ländern beobachtet. (Wiki. de.)

老女の夏、か。

 

『楡家の人びと』

北杜夫
トマス・マンを読むなら、楡家の人びと、と、勧められたことがある。
作者は、マンのどこを学んだのだろうか。

- 戯画化された人物像
- 史実と(虚構の)家族史の交差

しかしまた、

- 自然描写
- 病気、死の描写
- 戦争体験の記述(城木という登場人物を設定してまでして、戦争を書き込んでいる。ほとんど戯画化されることがないという点で例外的)

は、マンにはない、作者の圧倒的な力量を示す部分でもある。

そして、『ブッテンブローク』の芸術家モチーフは、おそらく意識的に、無視、あるいは、縮小されている(徹吉の学者気質がそれに当たるか)。さらに、後年のマンの作品に現れる、作中の芸術論、作品化された小説論が欠けているのは、ひょっとすると、日本文学の問題なのかもしれない。

徹吉の『精神医学史』で、カタカナ書きの固有名詞が列挙されているのは、修辞的な脱線だろうとは思う。しかし、気になる(第二部、2章、4章、8章)。やはり18世紀、フランス、ピネル、なのか。

斎藤茂吉に関しては、朝日新聞掲載の戦争詠二首が挿入されている。

The Danish String Quartet

Per Nørgård: SQ Nr. 1, Quartetto Breve (1952)

Schostokowitsch: SQ Nr. 15, Es-Moll, op. 144 (1974)

Beethoven: SQ Nr. 12, Es-Dur op. 127 (1823/24)

音を押し殺したような二つの曲の後に、ベートーベンを聴くと、アダージョですら晩年の重苦しさを感じる。