自由の創出

ジャン・スタロビンスキー(小西嘉幸 訳)
四天王寺の古本市で購入。1000円。

18世紀がロココ趣味だけではないことは判る。自由がひょっとしたら、発明されたものかもしれないことも判る。しかし、自由とノイマンバロック教会がどのように結びつくのか。

いまさらながら、ではあるが、拾い読み。それにしても、訳文と図版がちぐはぐになっているのは致命的である。


ドイツ語版を書架から引っ張り出して、読むことにした。

Jean Starobinski: Die Erfindung der Freiheit. 1700-1789, Ffm. (Fischer) 1988

吾輩は猫である

朝日新聞連載終了。
といっても、この作品はもともと朝日新聞とは関係がない。

猫が最期に呑むのは、酒だとばかり思っていた。

思えば、中学生だか、小学生だかの頃、『路傍の石』や『次郎物語』といっしょに、子ども向けの本で読んだきりだった。ビールでは判らないので、お酒になっていたのかもしれない。

カーテル・ムルが出てくるのも、この最後の一節なのだった。

Adolf Wölfli 1864-1930

名古屋市美術館で回顧展を見た。

絵画というのか、本というのか、とにかく稠密に描き込まれた線描がそれだけで、表現になっている。精神病棟で制作されたという。

フロイトが生まれたのが、1856年。シュレーバーは、1842年に生まれている。ユングは、1875年生まれ。作家ロベルト・ヴァルザーは、1878年生まれ。

聖アントニウスの誘惑

クラーナハ展(大阪国立国際美術館

全景には、幻想に捕らえられ宙に浮かんだアントニウス。まるで聖人自身が幻想の一部になってしまったかのようである。しかしまた、遠くに見える町は、なにごともなかったかのように静かで、これまた不気味である。

遠景も近景も、木版だとは思えないほど緻密に描き込まれていて、謎めいた感じを醸し出している。

バッハ『音楽の捧げ物』

Herbert Kegel u. Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig, 1972

フリューゲル=ピアノフォルテのボヤーっとしたリチュルカーレで始まり、ゆっくりとフーガ、カノン、ソナタが続く。後半は、パウル・デッサウヴェーベルンの編曲が並んでいるが、まるで最初からこの組み合わせで作曲されていたかのよう。
デッサウによる編曲は後の方がおもしろい。 Quaerendo invenietis のオルガンは、やはり20世紀の音がしている。

にもかかわらず、全体としてとても懐かしい感じがするのは、録音が古いためだけではないと思う。バッハ、あるいは、現代音楽はこうあるべき、というゆるぎなき信念がひしひしと伝わってくる。

70年頃のライプチヒでは、こういう演奏ができたのだ。良い意味でも、悪い意味でも。

ひかり埃のきみ

福田尚代

回文。前から読んでも、後ろから読んでも同じ文字列。たとえば、

眼鏡がない。田舎ね。カメ
めがねがない。いなかね。かめ。

なんていうレベルなら、ちょっと考えればできる。

しかし、これが何行にも渡り、次から次へと何ページもくり出されてくると、もう目が回りそう。
言葉遊びは、詩が一定の音の組み合わせからなることを思い出させてくれる。けれども、それだけでは、なにかが足りない。なにか強烈なイメージが欲しい。しかし、これだけ回文が連ねられると、連なっているだけで、独特のイメージが喚起される。