100夜居続けたら

昔、中国のある高官が歌姫に恋をした。「わたしの部屋の窓の下で、床几にすわって百夜お待ちくだされば、あなたのものになりましょう」、女はそう言った。九十九日目の夜、くだんの高官は立ち上がり、床几をこわきに立ち去ってしまった。

(バルト『恋愛のディスクール』 断章「待機 Attente」)

この逸話に向けて、1976年2月26日講義では、四つの解釈が提示されている。

  • 「遊女の顔」(いやな顔をした)。典型的な攻撃、「けんか」なしの復讐
  • 想像界からの出口:高級官吏はもう恋をしていない
  • 繰り返しの終わり、・・・果てしなく繰り返すことを宿命づけられた、100夜のエピソードの終わり。
  • 急展開として、立ち去ることが物語の構成を可能にしている。もし100夜の間、すべき物語がなければ、どんなテクストにも必要な急展開がなければならない。反対に、官吏は物語を作らないために100夜目も居続けることができただろう。

待つこと自体が目的になってしまった、といういかにもありそうな解釈をバルトは採らなかった。凡庸だからか。あるいは、そこには嘘が含まれているのかもしれない。

挙げられている解釈のなかで、面白いのは、あとの二つ。官吏が止めなければ、100夜過ぎても繰り返される、というのは物語的な必然だろう。しかし、止めなければ、物語にならないという。100夜居続けたら、どうなるのか。バルトは、最後の解釈を続ける。

もっとずっと揺るぎない、決定的な、客観化された結末となっただろう。というのも、それは劇的ではなく、恋愛の精神錯乱の外にあるからだ。