フルトヴェングラー

丸山眞男は、フルトヴェングラーがギリギリまでドイツに留まったのは、この指揮者が「自分の芸術がドイツの国土との結びつきを離れてはありえないという自覚」持っていたから、と言う。フルトヴェングラーは、ユダヤ系の芸術家のように、コスモポリタンではなかった、ドイツの聴衆を必要としていた ― まあ、そういう見方もありうるかも。このあたり、丸山らしからぬ、なんだか説得力を欠く発言だと思う。
1943年、極限状態で収録した運命交響曲が最高だとも言う。こういう実感が先で、上の話は後からくっついてきたにちがいない。
しかし、もう一方で、丸山は、フルトヴェングラーの胡乱な政治感覚を批判しないではいられない。フルトヴェングラーアメリカに渡らなかったことが、ナチズムの文化政策にどれだけ利したか。
「音色」と言うのだが、丸山は、フルトヴェングラーの演奏をレコードで聴いているにすぎない。
多くの日本人がそうだった。しかし実際には、丸山は、平均的な日本人以上の音楽体験をしているのである。1962年には、バイロイトローエングリンを聴いている。レコードの音のいかがわしさもよく知っていた。ショルティの演奏会では、レコードと同じように細部を聴くことができるよう、マイクがセットされていたという話も出てくる。それでもなお、「音色」というからには、よほどの思い入れがあるのだろう。