憲法13条 「すべての国民は、個人として尊重される」

改憲草案では、「個人」が「人」に書き換えられているという(朝日新聞朝刊 天声人語)。個人が尊重されない国で、人が尊重されることはない。
それにしても、首相は選挙の勝利=改憲支持をほとんど確信している様子。そういう世の中になってしまったのだろうか。

門 99回(朝日新聞朝刊)

「法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩くようにやって御覧なさい。頭のてっぺんから足の爪先までが悉く公案で充実したとき、がぜんとして新天地が現前するので御座います」

宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働きを敢えてするに適しない事を深く悲しんだ。

三輪太郎『憂国者たち』

群像九月号

三島由紀夫の『豊穣の海』は、いまだ読んでいない(絶対に読め、と言われたにもかかわらず)ので、ただの当てずっぽうだが、ひょっとすると、この物語はその第五部にあたるのかもしれない。それにしても、この大量難民の時代に、「本物の天皇」や「本物の日本」を探そうというのは、かなりドンキホーテ的な冒険ではなかろうか。

ボディ・クリティシズム

バーバラ・M・スタフォード(高山宏 訳)

神経系モデルの人間学が、解剖学モデルに対立するという見方がおもしろいと思った。リヒテンベルクの Pathognomie の表面性も、この繋がりで積極的な意味を帯びてくる。ラファータの観相学にある神学的な深みを用心深く避けているのだとすれば、リヒテンベルクのテクストに漂う諷刺的な感触も理解できる。
妙に気になっていた帯の「人体の気象学へ」は、やはり本書の核心なのだろう。

話題の(になった)本ということだけのことはある。しかし、文化論というのはみなそうだが、圧倒的なヴォリュームで人を納得させるようなところがあって、どうも辟易する。

高橋源一郎『「あの戦争」から「この戦争」へ』 と 荒川洋治『文学の空気のあるところ』

二人とも、社会の中に入っていって、文学を探している。

高橋氏の方が、より徹底的なのは、たぶん、文学の力をもうあまり信じていないからだろう。にもかかわらず、文学があるとすれば、こんな風なんだろうと思わせるようなところがある。いろいろなことを知っているし、いろいろな語り方ができる。政治的発言にも、どことなく小説家らしさがあって、いい。

にもかかわらず、話を聴きに行くなら、荒川氏ではないかと思う。