「法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩くようにやって御覧なさい。頭のてっぺんから足の爪先までが悉く公案で充実したとき、がぜんとして新天地が現前するので御座います」
宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働きを敢えてするに適しない事を深く悲しんだ。
「法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩くようにやって御覧なさい。頭のてっぺんから足の爪先までが悉く公案で充実したとき、がぜんとして新天地が現前するので御座います」
宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働きを敢えてするに適しない事を深く悲しんだ。
二人とも、社会の中に入っていって、文学を探している。
高橋氏の方が、より徹底的なのは、たぶん、文学の力をもうあまり信じていないからだろう。にもかかわらず、文学があるとすれば、こんな風なんだろうと思わせるようなところがある。いろいろなことを知っているし、いろいろな語り方ができる。政治的発言にも、どことなく小説家らしさがあって、いい。
にもかかわらず、話を聴きに行くなら、荒川氏ではないかと思う。
1800年前後のヴィーンは、違法出版が公然と行われ、検閲も厳しかった。オン・デマンドで簡単にコピーを取れる時代になったが、専門家の手が入っていないだけに注意が必要である。
Kluge 正本は、Berlin 1811
Johann Christian Reil, Johann Christoph Hoffbauer (hg.): Beyträge zur Beförderung einer Kurmethode auf psychichem Wege
も、ウィーンの国立図書館所蔵は、1816年版で、一般に使用されている1808年版とは頁数が違っている。1808年版は、ベルリンの国立図書館が全巻所蔵。バイエルン国立図書館には欠巻がある。
ところが、どういうわけか、ベルリンの資料は、日本から簡単にダウンロードできない。
アレクセイ・ゲルマン監督
たそがれ、というより、いない、という方が近いだろう。神のいない世界には、時間的にも空間的にも、およそパースペクティヴがない。切れ切れの接写で構成される場面、反復される物語。
文明化を知らない世界。牛や豚と変わらない人間たちが、なんだか殺したり殺されたりしているのだが、なにも進展しない。
ルネサンスのない世界。ボッシュ、ブリューゲルのグロテスク絵画は、なんといってもルネサンスの産物なのだ、と今さらながらに思った。
廊下での立ち話で、ランズマンの最新作が上演されていることを知った。ネットで調べているうちに、この映画を見ておこうと思った。
ランズマンの方は、まだ京都でやっている、が、もう満腹。