Joachim Kaiser

dradio.de / Kultur を聴いていたら、シューマンクライスレリアーナの話をしていた。一曲ずつ、それがどういう音楽なのか、言葉をつくして語っていく。そして、それぞれの曲について、何人かの演奏を紹介していた。

まず、ヴィルヘルム・ケンプが出てくるのは、世代的な感性なのだろうか。ケンプ77歳の演奏には、なにかしらまどろっこしさがある。ブレンデルは、同じテンポで弾いているが、コントラストがはっきりしている。が、ケンプの抒情的な演奏はいまだ一聴の価値がある(と言いつつ、第二曲はケンプではなく、ウチダの演奏を聴くのだった)。別のところでは、ケンプ(父親オルガニストだった)のゆっくりとしたアルペジオを聴き、シューマンがバッハのトッカータとフーガをどうやって取り込んでいるのかが示される。

ホロヴィッツを驚嘆させたアシュケナージの早弾き。内田光子コクトーの対比。シフ、ルビンシュタイン、ルプー、とならべて聴いてみると、一つのフレーズがそれぞれ独特のニュアンスで立ち上がってくることが判る。

ホロヴィッツが、アイヘンドルフの詩を諳んじていたという話。ルビンシュタインが当然のように語るピアノテクニックは、他の誰かが試みてもまったく効果を発揮しない、といった話。コルトーの間違った打鍵を、自分の正確な打鍵よりも高く評価していたグルダの話。

終曲は、ホロヴィッツが1969に録音した演奏。後年の演奏はダメなのだ、と。もちろん、途中、第一交響曲(マリナー指揮)の一節が挿入されたりもする。

Süddeutsche Zeitung で音楽評論を書いていたが、今年の5月に亡くなった。

自由の創出

ジャン・スタロビンスキー(小西嘉幸 訳)
四天王寺の古本市で購入。1000円。

18世紀がロココ趣味だけではないことは判る。自由がひょっとしたら、発明されたものかもしれないことも判る。しかし、自由とノイマンバロック教会がどのように結びつくのか。

いまさらながら、ではあるが、拾い読み。それにしても、訳文と図版がちぐはぐになっているのは致命的である。


ドイツ語版を書架から引っ張り出して、読むことにした。

Jean Starobinski: Die Erfindung der Freiheit. 1700-1789, Ffm. (Fischer) 1988

吾輩は猫である

朝日新聞連載終了。
といっても、この作品はもともと朝日新聞とは関係がない。

猫が最期に呑むのは、酒だとばかり思っていた。

思えば、中学生だか、小学生だかの頃、『路傍の石』や『次郎物語』といっしょに、子ども向けの本で読んだきりだった。ビールでは判らないので、お酒になっていたのかもしれない。

カーテル・ムルが出てくるのも、この最後の一節なのだった。

Adolf Wölfli 1864-1930

名古屋市美術館で回顧展を見た。

絵画というのか、本というのか、とにかく稠密に描き込まれた線描がそれだけで、表現になっている。精神病棟で制作されたという。

フロイトが生まれたのが、1856年。シュレーバーは、1842年に生まれている。ユングは、1875年生まれ。作家ロベルト・ヴァルザーは、1878年生まれ。

聖アントニウスの誘惑

クラーナハ展(大阪国立国際美術館

全景には、幻想に捕らえられ宙に浮かんだアントニウス。まるで聖人自身が幻想の一部になってしまったかのようである。しかしまた、遠くに見える町は、なにごともなかったかのように静かで、これまた不気味である。

遠景も近景も、木版だとは思えないほど緻密に描き込まれていて、謎めいた感じを醸し出している。

バッハ『音楽の捧げ物』

Herbert Kegel u. Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig, 1972

フリューゲル=ピアノフォルテのボヤーっとしたリチュルカーレで始まり、ゆっくりとフーガ、カノン、ソナタが続く。後半は、パウル・デッサウヴェーベルンの編曲が並んでいるが、まるで最初からこの組み合わせで作曲されていたかのよう。
デッサウによる編曲は後の方がおもしろい。 Quaerendo invenietis のオルガンは、やはり20世紀の音がしている。

にもかかわらず、全体としてとても懐かしい感じがするのは、録音が古いためだけではないと思う。バッハ、あるいは、現代音楽はこうあるべき、というゆるぎなき信念がひしひしと伝わってくる。

70年頃のライプチヒでは、こういう演奏ができたのだ。良い意味でも、悪い意味でも。