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吾輩は猫である

朝日新聞連載終了。
といっても、この作品はもともと朝日新聞とは関係がない。

猫が最期に呑むのは、酒だとばかり思っていた。

思えば、中学生だか、小学生だかの頃、『路傍の石』や『次郎物語』といっしょに、子ども向けの本で読んだきりだった。ビールでは判らないので、お酒になっていたのかもしれない。

カーテル・ムルが出てくるのも、この最後の一節なのだった。

Adolf Wölfli 1864-1930

名古屋市美術館で回顧展を見た。

絵画というのか、本というのか、とにかく稠密に描き込まれた線描がそれだけで、表現になっている。精神病棟で制作されたという。

フロイトが生まれたのが、1856年。シュレーバーは、1842年に生まれている。ユングは、1875年生まれ。作家ロベルト・ヴァルザーは、1878年生まれ。

聖アントニウスの誘惑

クラーナハ展(大阪国立国際美術館

全景には、幻想に捕らえられ宙に浮かんだアントニウス。まるで聖人自身が幻想の一部になってしまったかのようである。しかしまた、遠くに見える町は、なにごともなかったかのように静かで、これまた不気味である。

遠景も近景も、木版だとは思えないほど緻密に描き込まれていて、謎めいた感じを醸し出している。

バッハ『音楽の捧げ物』

Herbert Kegel u. Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig, 1972

フリューゲル=ピアノフォルテのボヤーっとしたリチュルカーレで始まり、ゆっくりとフーガ、カノン、ソナタが続く。後半は、パウル・デッサウヴェーベルンの編曲が並んでいるが、まるで最初からこの組み合わせで作曲されていたかのよう。
デッサウによる編曲は後の方がおもしろい。 Quaerendo invenietis のオルガンは、やはり20世紀の音がしている。

にもかかわらず、全体としてとても懐かしい感じがするのは、録音が古いためだけではないと思う。バッハ、あるいは、現代音楽はこうあるべき、というゆるぎなき信念がひしひしと伝わってくる。

70年頃のライプチヒでは、こういう演奏ができたのだ。良い意味でも、悪い意味でも。

ひかり埃のきみ

福田尚代

回文。前から読んでも、後ろから読んでも同じ文字列。たとえば、

眼鏡がない。田舎ね。カメ
めがねがない。いなかね。かめ。

なんていうレベルなら、ちょっと考えればできる。

しかし、これが何行にも渡り、次から次へと何ページもくり出されてくると、もう目が回りそう。
言葉遊びは、詩が一定の音の組み合わせからなることを思い出させてくれる。けれども、それだけでは、なにかが足りない。なにか強烈なイメージが欲しい。しかし、これだけ回文が連ねられると、連なっているだけで、独特のイメージが喚起される。

『歌の子詩の子 折口信夫』

持田叙子 著 幻戯書房

岩野泡鳴、鉄幹、晶子、鴎外、啄木といった周辺の人たちとの関係がおもしろい。

Altweibersommer

Altweibersommer ist in deutschsprachigen Ländern die Bezeichnung für eine meteorologische Singularität. Es handelt sich um eine Phase gleichmäßiger Witterung im Spätjahr, oft im September, die durch ein stabiles Hochdruckgebiet und ein warmes Ausklingen des Sommers gekennzeichnet ist. Das kurzzeitig trockenere Wetter erlaubt eine gute Fernsicht, intensiviert den Laubfall und die Laubverfärbung. Ähnliche Phänomene werden auch in anderen Ländern beobachtet. (Wiki. de.)

老女の夏、か。