文学の淵を渡る

大江健三郎 古井由吉

「詩を読む、時を眺める」で、二人は、翻訳詩の話をしているのだが、そこで、大江健三郎が、唐突に、森有正を引き合いに出して、古井の病気、疲労に触れる。

森有正氏はカテドラルに行ってやはり大きい疲労感を感じられたけれど、あなた[古井]が感じているのはそれとは逆の疲労感なのかと思います。

上下方向が違うと言う。
翻訳と創作の行き来を語るなかででてきた、不思議な「疲労」。

微視的探偵法

江戸川乱歩
ユリイカ 5 (1987)所収

リンドバーグ事件で、現場に残された手製の梯子を手がかりに、「木材エキスパート」アーサー・ケーラーが犯人を捜査した話。梯子は木製で、接ぎ木がされていた。その材質、鉋の削り痕を調べ、18ヶ月間、アメリカ全土にわたる材木問屋を訪ね、ようやくニューヨークの問屋にたどり着く。
その間、警察は、身代金につけられた印を手がかりに、容疑者を特定。ケーラーは、容疑者の屋根裏部屋の床板が梯子の接ぎ木に使われたことを突きとめる。
細部へのこだわりは、推理小説の成立に欠かせない要素だろう。
しかし、『オリエント急行』におけるリンドバーグ事件の扱いに比べると、作者の資質の違いを感じないではいられない。

猟奇の果

明智小五郎事件簿 IV

踝をピストルで撃たれた明智小五郎がどうやって賊の地下室から逃げ出すことができたのか。第二の品川の資金源はどうなっているのか。この小説は、そのような現実的な連関をまったく意に介さない。
書かれているのは、まったく区別のつかない二人の人間が存在するということの恐怖、理不尽、滑稽だけなのである。

愛之助は、友人の品川に誘われて、映画「怪紳士」を観に行く。

 と、突然、画面の右の隅へ、うしろ向きの大入道が現われた。活劇を見物している市民の一人がうっかりカメラの前へ首を出したのであろう。
 愛之助はある予感に胸がドキドキした。果たして、その大入道が、振り返ってカメラを見た。スクリーンの四分の一ぐらいの大きさで、一人の男の顔ばかりが、ギョロリとこちらを見た。
 ホンの一瞬間であった。邪魔になると注意でもされたのか、その顔は、こちらを見たかと思うと、たちまち画面から消えてしまった。
 その刹那、愛之助はぎょっとして息が止まった。

もちろん、画面に映し出されたのは、隣に座っている品川の顔なのである。
突然、一瞬間、刹那、の出来事ではあるが、愛之助にも読者にも予想された出来事ではあった。

和独大辞典

全3巻 iudicium verlag

たしかに、「最高峰」と銘打つだけの辞典ではある。たとえば、taihen(大変)の項。

たいへな美人 die umwerfende Schönheit

柏木はそう言うと、一度体をばらばらにほぐして又組立てるような大変な労をとって立上がった

Bei diesen Worten stand Kashiwagi mit einer Riesenanstrengung auf, so als wenn er einmal alle seine Glieder auseinanderwerfen und sie dann wieder aufsammeln müßte. (Mishima, Kinkakuji, 111 / 124)

黒蜥蜴

 無二の好敵手を失ったさびしさか、それとも何かもっと別の理由があったのか、女賊はいとも不思議な悲しみに、うちひしがれていた。

心理描写が稚拙なのは、乱歩個人の問題なのか。あるいは、推理小説というジャンルの制約なのか。
 その一方で、変装がテーマになっているので、当然と言えばその通りだが、「離魂病」という話にもなる。

 黒衣婦人は、狂気の不安におののいた。一つのものが二つに見えるという精神病があるならば、彼女はその恐ろしい病気に取りつかれていたのかもしれない。
 潤一青年が、顎を持ってグイとあお向けているその男の顔は、やっぱり潤一青年であった。潤ちゃんが二人になったのだ。まっぱだかの潤ちゃんと、職工服を着て付けひげをした潤ちゃんと。架空に眼に見えぬ大鏡が現れて、一人の姿を二つに見せているとでも考えるほかはなかった。だが、どちらが本体、どちらがその影なのであろうか。

 

少年探偵団

明智小五郎事件簿 X

 そいつは全身、墨をぬったような、おそろしくまっ黒なやつだということでした。「黒い魔物」のうわさは、もう、東京中にひろがっていましたけれど、ふしぎにも、はっきり、そいつの正体をみきわめた人は、だれもありませんでした。
 そいつは、暗やみの中へしか姿をあらわしませんので、何かしら、やみの中に、やみと同じ色のものが、もやもやと、うごめいていることはわかっても、それがどんな男であるか、あるいは女であるか、おとななのか子どもなのかさえ、はっきりとはわからないのだということです。

怪人二十面相』と同じ『少年倶楽部』に連載。
1937年発表というから、シリーズ第二弾ということになる。
 さすが乱歩と言うべきか、少年向けの文体で、あるいは、この文体だからありうる、不気味な世界を実現している。