隠す Cacher

バルト:恋愛のディスクール

1975年1月30日の講義では、主体の「二重のディスクール」が問題になっている。1) 過剰な情熱(が恋愛なのであった)を愛する人にすべて見せるべきではないのか。2) この過剰な情熱は隠すべきではないのか。
ウェルテルとロッテは、この二つのディスクールがかみ合わない。
1') ロッテと完全に一体になっているとき(主体としてのロッテが消滅する)、「恋する私は自分が解き放つべき表現に送り返される」。2')「一体化に一瞬の亀裂が入るとき」、それは、一体化した対象に「現実の人物を現れさせるとき」 なのだが、恋する私は他者の欲望を考慮し、沈黙する。
聖人か、卑怯者か。
1976年2月26日の講義で、バルトは、このフィギュールに「隠すことの『宣伝』」という観点を加えている。最後のところがおもしろい。言葉はごまかすことができるが、身体(声)はごまかしがきかない。
「恋愛の破綻の記号。長く続いた言葉の緊張は最後に、・・・身体のアクティング (acting) において爆発する」