ガリレオ裁判 ――400年後の真実

田中一郎 岩波新書

いろいろなことが判った
- ガリレオ裁判は、1633年、30年戦争の只中で行われた
- ローマ教皇ウルバヌス8世は、当時の天文学を理解していた
- ガリレオの地位「トスカナ大公付き主席数学者兼哲学者」には、相当の権威があった
- ガリレオは、教皇とも親交があった
- 厳しい判決が下りたが、ガリレオ自身は裁判中も、裁判後も、異例の厚遇をうけている
- 教皇の甥、フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿は、ガリレオの弟子カステリに教えを受けている
- カステリは、しかし、ガリレオ裁判の後、ローマを離れ、戻ることがなかった

教皇が『天文対話』を認めようとしなかったのは、自分の意見がシンプリチオの言葉として収録されていたといった私怨によるものではなかった。地動説(天動説は、聖書の記述に反してはいても、問題にならない)の採否は、当時の神学(神と人間と自然の関係)を揺るがしかねない問題だった。裁判は、しかし、神学的な問題には触れず、セジッツィのコペルニクス説禁令に従わなかったという点をめぐって争われた。

ついでながら、モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi: 1567-1643) は、ガリレオGalileo Galilei: 1564-1642)の同時代人である。1632年、モンテヴェルディは司祭になっている。ヴェネツィアのオペラ劇場のこけらおとしが、1637年。『ポッペアの戴冠』が1642年。