ナボコフ『偉業』

貝澤哉 訳)光文社古典文庫

主人公マルティンは、作者と同じように、ケンブリッジ大学に入学するのだが、「長いあいだ専攻する学問分野を決められずにいた」。

人間の思考ってものは、星に満たされた宇宙という名の空中ブランコに乗って前へ後ろへすばやく飛び過ぎていき、その下には数学という名の網が広げられているわけで、ネットの上でやるアクロバットみたいなものなのだけれど、とはいえ不意に、じつはネットなんてもともとありはしないんだと気づくことがある ―― マルティンがうらやむのはまさにこういう目も眩むような地点にまで到達しながら、あらたな計算でその恐怖を克服できるような人物なのだ。

自然科学はやはり判りやすい。しかし、さらに「つかみどころのない学問分野」がつづく。

法学や政治学、経済学といった五里霧中なやつらだ。

なぜなら、「どの学問にもつきものだしマルティンも愛してやまないあの閃きというやつが、あまりにも近寄りがたい彼方に秘匿されているからだ」。
しかし、「文学」はそれらの分野とは画然と区別されている。

ホラティウスマエケナスが天気やスポーツのことで他愛もない会話をしたり、老いたリア王が、いつも吠えてくる娘の飼い犬たちの気どった名前を口にしながら嘆いてみせたりするのを読んで、なんと激しく心を揺さぶられたことだろう!

こんな風に、『風刺詩』や『リア王』を読むことができるのは、まさに「閃き」以外のなにものでもないように思われるが、

マルティンが文学に求めていたのは一般化された意味なんかではなくて、

文学には、自然科学の「ネット」にあたるものがない。

森のなかに思いがけなくぱっと開けた陽のあたる草地なのであり、そこでは関節がぽきぽき鳴るまで身体を伸ばし、うっとりと我を忘れることだってできるのだ。

「そこにだってマルティンが有頂天になれるちょっとした兆しはあった」との控えめなコメントにもかかわらず、結局、マルティンが選んだのは、文学だった。