人目につかぬ駅の片隅に置かれた小荷物のように

ところで、不在とは他者についてのみ言えることなのだ。出発するのは相手の方であり、わたしはとどまる。あの人はたえず出発し、旅立とうとしている。本来が移動するもの、逃げ去るものなのだ。これとは逆に、わたしは、恋をしているわたしは、本来が引きこもりがちで、不動で、受身で、待ちつづけ、その場に押しひしがれ、取り残されている。人目につかぬ駅の片隅に置かれた小荷物のように。恋愛における不在とは一方通行なものであり、出発する者からではなく、とどまる者からしか語りえぬものなのだ。たえず現前するわたしというのは、たえず不在であるあなたの前でしか成立しない。不在を語るとは、したがって、主体の場と他者の場が交換されえないと主張することだ。つまりは、「わたしは、自分が愛しているほど愛されていない」と言うことなのだる。

(恋愛のディスクール 断章「不在の人」)

ウェルテルの場合は、ベクトルが逆で、愛する主体が去って行く、とバルトは言う。しかし、去る人/待つ人 を分けるのは、愛する主体/対象 ではなく、男/女 ではないのか。少なくとも、ドイツ・ロマン派では。『冬の旅』、『青い花』。

40年前にここに付箋を付けたのは、しかし、そういうことを考えて、ではなかった。