バルト:恋愛のディスクール

https://dtkame.hatenablog.com/entry/2022/02/18/121415

多分、読み違え。
「古い物語が、いつも新しくあり続ける・・・」は、『恋愛のディスクール 断章』を読めばその通り。「ひとつのテクストのなかにすべてがある」。なるほど。
恋愛と恋愛のディスクールは同じなのか?
講義は続く。
恋愛のディスクールが、恋愛=主体のディスクールならば、問題になっているのは、テクストであると同時に、テクストによって形成される(テクストを形成する)主体と言ってもいいのだろう。「(恋愛をめぐる)言表行為はしたがって、恋愛主体によるものである」というのは、しかし、バルトの場合にのみあてはまる「論理的であると同時に常軌を逸している事実」というべきか。
いや、もちろん、バルトの個人的事情とは何の関係もない話である。ここでは、「欲望と〈想像的なもの〉に従って話す主体の場の不安定な位相(トポロジー)」が探求されるのだ、と。あるいは、それは「主体としての読者が生みだす作品 (!) かもしれない。」とも。
「個人的なもので、一般的なものでもなく、流通するもの、・・・複数性(差異の永劫回帰)」。この「永劫回帰」は、前の「永劫回帰」とは違う。ところが、ここにも注がついていて、「取り消し線が引かれている」という。