大地と憂愁

19世紀ロシアの、とりわけ知識人たちは、西欧的な知識や教養を身につけつつも、自らの内面に横たわる「ロシア的なもの」を模索し続けていた。私もそうだが、少し以前の日本の青年たちは、たいてい19世紀ロシアの偉大な作家や音楽家に魅了されていたものだが、そこに見られるのは、西欧的な語法や知識に従った小説や音楽の背後から立ち上ってくる、あの「ロシア的なもの」であった。大地と憂愁、神と人間の実存、それにロシア正教会風の神秘主義といった独特の空気である。
佐伯啓思:「ロシア的価値」と侵略 朝日新聞 2022.3.26.)

たしかに、ドストエフスキーにもチャイコフスキーにも、その世界から抜け出ることができないような異様な力を感じたものだった。「大地と憂愁・・・」、その通り。しかし、その「ロシア的なもの」を支えていたのは、「西欧的な語法や知識」だった、と。なるほど、たしかに、その通り。バフチンみたいな人が出てくるのも、そういうことなのだろう。その程度のことは常識なのかもしれないが、いや、ちょっとした発見。

明治以降の日本の近代芸術も同じような路線に立っていた。「西欧的な語法や知識」に支えられた、日本的なものの探究、そして、創造。日本の青年たちがあれほど「ロシア的なもの」に惹かれたのも、意識する、しないは措いて、そういうことだったのかもしれない。ツルゲーネフトルストイゴーゴリドストエフスキーロシア文学の受容抜きで、日本文学史はありえない。